diary 2002.12b ■2002.12.17 火 生きるのがどんなに辛い状況に陥っても、絶対に死ぬな。死のうと思うほどの覚悟があれば何だってできる。死ぬ気で生きろ。…と、そんな話を上の空で聞いていた。死ぬ気で生きろ、か。格好いい言葉だよな、と思う。そう思いながら、心の中でその言葉を否定していた。そんな状況で一度死ぬ覚悟を決めてしまった人間は、もうそこからは逃れられない。そこで一度死に向けてしまった覚悟を生きる事に転化することなど、不可能だろう、と。 人を生かすのは、生きたいという気持ちだ。死ぬ気、ではない。逆境になればなるほど。どんな絶望的な状況下でも、なお最後まで生きようともがき続けた者だけが、最後には生き残る。死ぬ気で何かに立ち向かう事は、他を生かすための絶大な力とはなろう。だが、自分が生き残るための力とは、なりえないのだと思う。 昨日と今日とで、今年予定されていた出張が一通り終わった。後は今年の〆を机の上で片付けて、実質、今年の仕事は今週で終わりになる。そういえば昨夜、今冬3度目の纏まった雪が降った。夜中に積もったものだ。今年のこれまでの雪は、何故か目醒めると積もっている、そんな雪ばかり。人が瞬きして瞳を閉ざしている間のみこの世に現れて、再び眼を開けると同時に姿を消す。そうして人々の身近に存在しながら、決して人には姿を見られる事が無い。そんな幽霊だか妖精だかの話を、ふっと思い出す。 ただ、昨夜。雪降る気配は感じていた。降る雪はこの街の音を変える。雪降る夜の沈黙。でも、さすがにこの100万人都市の夜には、雪の日であろうと完全な沈黙は無い。それでも確かに普段のノイズのような雑音は降る雪、積もった雪へと吸い込まれて、遠くで除雪作業を行っている重機の低い音だけが、寝入りばなの夜に響いていた。 そんな雪降る気配は感じていた。けれど、寝床の中。カーテンも窓も、瞳も開いてはみなかった。そうして今朝も、見えない間に降り積もった雪に驚かされる。ガラス2枚隔てただけのごく身近なところで、雪はずっと降り続いていたのだか。 ■2002.12.18 水 労災とは常に隣り合わせの職場なので、昼休み等には色々なところの保険会社の外交員が、よくこの職場を訪ねてくる。先日、その中のひとりと話をしていた時。その彼女が同じ短大の後輩だという事が判明。こちらが卒業してからの入学なので学生生活自体は被っていないが、学科も選択コースも同じだったので、お世話になった先生方は同じだった。通っていた学校はこの街のものでは無い。しかも卒業から年度を経て、まさかここに来てこういう話をできるとは思っていなかった。世間は狭い。 学生時代にお世話になった、ゼミ担当の先生がいる。北海道では著名な作家の方で、文系のその学校では創作の講義を担当していた。「研究室、喫煙所代わりにしていいから」との言葉に出入りするようになってから、それが切欠で元々読んだり書いたりとはあまり縁の無かった自分を、「創作」を扱う彼担当のゼミに引き擦り込んだ人物だ。今こうして何か書いているのはどうしてだろう、と考えると、始まりはその時だった。そして今でも続いている。 その先生の事を、彼女に聞いてみる。同じ講義はひらかれていたけれど、彼女が入学してすぐにその先生は入院してしまい、そのまま講義は中断されてしまったという。そして、それっきり二度と再開される事は無かった。そう。その先生はそのまま亡くなった。その意味で、彼女にとっても記憶に残っている先生だったらしい。そして同じ頃、こちらは離れた町で、ある地方紙に掲載された先生の訃報を伝える記事を眼にしていたのだった。 他にも色々な話はしていたけれど、今はその事を思い出していた。もしその先生との出会いが無ければ、こうして今何か書いている事はなかったのだろう。こうして書くことに伴う様々なものにも、触れることは無かったのだろう、と。記憶に刻まれた先生の言葉がいくつもある。そうして、切欠を与えてくれた先生の元を離れた今でも、こうして何かしら書き続けている事の不思議。 生きていても、何も教えられない先生がいる。死してなお、何かを教え続けてくれる先生もいる。彼は、恩師だったのだと思う。そういう意味で。 なお、在学中に何人かで立ち上げたあるサークルは、彼女が入学した頃にはもう無くなっていたらしい。ひと言、「知らないですぅ」と言われてしまった。 ■2002.12.19 木 今日は半日をかけて、職場全体の大掃除。違うセクションの1人と組んで、床にワックスをかけてポリッシャーという機械で磨きをかける。その際その2歳年下の彼が、職場で抱えているちょっとした悩みの事をポツリポツリと漏らしてくる。彼の上司、言葉が少しキツイ人物なのだ。この前の降雪の際に、彼は誰よりも早く出勤し、玄関前の除雪を1人で済ませた。それで事務所に戻って一服していると、その上司が出勤してきてひと言。「暇してるんだったら除雪してこい」 彼がもう終りました、と答えると 「あれで除雪したのか」と。その言っている意味が判らなかった彼が、先程自分が除雪してきたばかりの玄関を見に行くと、そこには除雪後に屋根から落ちてきた一塊の雪が。 「ひとつ何かあったらそこだけしか見ないで、他にちゃんとやったところ見てくれないんですよ」 と彼は言う。それはまぁ可愛そうだが…。彼はその後その雪を片付けて、後はただ、黙っていたらしい。それもどうだろう。その場その場で切り返さずに、彼はそういう事をどんどんと自分の内に、黙って積み重ねてゆく。そうしてちょっとしたストレスにしてしまっているのだ。 そうした小言のひとつひとつを、言葉の意味どおりいちいち真面目に受け取る必要は無いだろう。咄嗟に発せられる小言は、練りに練られた文章とは違う。それは単に反射的に発せられた言葉かも知れないし、本人は馴れ合いのつもりで言っているのかも知れない。受け手にも少し余裕が必要だと思う。相手がどんなつもりでそれを言っているのか。それを見る余裕が。それでもし相手が本気でそんな事を言っているのだったら、その時は大いに文句を言ってやれ。 「じゃあ」と彼に言う。「この床磨き上げても、ここにティッシュでも1枚落としておいたら、それ怒られて終わりなんだ」 …やってみようか? 彼の目が本気になる。「止めて下さい!」 ここは彼の事務所なのだ。 とにかくまぁ小言の多い上司は、下の動きを硬くしてしまう。それだけは多分、確かなのだと思う。 ■2002.12.21 土 昨日は仲間内6人で、忘年会というわけでもなく宴会だった。帰りが遅かったので今日は9時頃まで爆睡。起きてから部屋の片付けをする。仕事に持ち歩いている鞄や、普段使っているリュック、バッグ類の中身も整理する。財布の中身も整理する。財布の中は、普段あまり整理される事の無い空間だ。ここはここで、この一年間の様々なものが詰まっていると思う。古いレシート。1度っ切りのポイントカード。様々な名刺。チェキで撮られた写真。そして、去年の初めに神社で買ったおみくじ。当たっていただろうか。おみくじを開いてみる。 「これまでの低迷期から脱出して、ゆっくりと運気が上昇し出します。今後の盛運期を向かえるにあたっての、大切な時期でもありますから、いかに過ごすかによって後の明暗を分けることになります。まだ低調さは後を引きそうですが、焦らず地道に足場を固める事。飛躍するにはそれなりの準備が必要です。」と書かれた小吉。 去年はこの街への引越し、という変化があったが、今年は確かに足場固めの時期だったと思う。それなりに足場も固まっただろう。安定はしていた。後はこれが「今後の盛運期」への土台となればいいのだが。…他には。 「仕事運…実がなるのはまだ先の事。長期展望に立ち、一つ一つの努力を積み重ねよ。」これはまぁ、その通りだった。「健康・体調…心身共に疲労がたまる。消化器、皮膚系の疾患に要注意」これはハズレ。今年も健康そのものだった。 「恋愛・縁談…良いきっかけがつかめる。地味ながら堅実な発展の兆し。」 縁談からはまだ逃げ回っているな。出会いの理由が出会いそのものに先立っているような、そんな出会いは好きじゃない…とか何とか言い訳しながら。 前に書いたゼミの恩師にこう言われた事がある。「お前にはリリカルな側面とシニカルな側面の、相反するふたつの側面がある。そのふたつの側面が入れ替わり顔を出すから、相手は結局そのどちらの側面を信じていいのか判らなくなるんだ」と。これが自分の書いたものに対する指摘なのか、それとも自分自身に対する指摘なのか。それは結局判らなかったけれど、そうした相手には、その両方とも信じてもらいたいと思う。でも、その両方を信じてもらえる自信も、今の自分にはまだまだ無いような気がする。大して成長していないな。 「学業・技芸…基本や強化したい分野は、繰り返し徹底的にやっておくこと。」技芸、といえば今しているようなこういうことだろうか。じゃあ、徹底的にやってみましょう。 という事で、トップに物語をひとつ載せておいた。 ■2002.12.22 日 (冬至) 2週間前に図書館で借りてきていた本を、まだ読みきっていなかった。今日が返済日なので、昼過ぎまで大慌てで読書する事に。読んでいたのはカール・セーガン&アン・ドルーヤン共著による『はるかな記憶(上下)』という本。生命、とりわけヒトを、原始地球の時代から遡って探求しているような内容。特に読みたかったという本でもなく、借りてきたのはたまたまだった。以前、惑星探査機「ボイジャー」に載せられたという、地球以外の生命体に地球の事を伝えるメッセージの内容に興味をもって、どんなものが積まれたのだろう、と調べた事がある。その時に、ボイジャープロジェクトとそのメッセージを探査機に搭載するプロジェクト、その双方のプロジェクトの主任者として、この本の著者の名前が出ていた。それで目に留まってその本を手にしたのだ。 上巻はそこそこ面白かったのだけど、下巻は殆ど飛ばし読みになった。霊長類の行動…とりわけ集団内での序列のありかたや、争い、セックスなどの習性、そしてヒトと他の霊長類との遺伝子レベルでの共通点などを細かく検証した後、「万物の霊長たる人間だって、彼らと変わりないでしょ?」という問いかけに終始しているばかりのような感じで、それがうるさい気がしてすんなりと入れなかった。 科学者の視点だな、と思う。ヒトが他の動物達とさほど大きく違った存在ではない、という事。それを示すために費やされる、膨大な検証や実験についての説明の数々。そこまで字数を費やさなくても、判る人には判るだろうに。でも彼らは「動物も人間と同じように苦痛を感じるのだろうか」という疑問に対しても、様々な実験結果、科学的な裏付けを元に、確かな検証を試みようとするのだ。 どの科学者が、とは言わない。でも、時々科学は残酷だな、と思うことがある。動物も人間と同じように苦痛を感じるのだろうか? そういう疑問が浮かんだら、試さずにはいられない。試すとは実際に動物に苦痛を与える事だ。そうして脳波なり電気信号などを計りその反応を確かめることで、科学的にその事を裏付けてゆく。 ラットの体に限界寸前の電流を流す。苦しむラットが「キィ」と泣き声を上げる。ほら、ラットは苦痛に対して苦しそうな反応を示した。だからラットだって人間と同じく苦痛を感じるのだ! 流す電流の量など様々に状況を変えて何度も実験を繰り返し、ある一定の条件が満たされれば、科学はそれを裏付けた事となり、その結果は論文にまとめられる。でも、そこまでしなくても多くの人はすでに知っている。「そりゃそうだろう」と。 植物にポリグラフを付けた状態で、その葉を炎であぶってみる。すると、植物を流れる電流の値に変化が生じる。モノを言わない植物だって、苦痛には反応を示すのだ! そうした実験も同じだ。そういう事も、すでに多くの人が知っている。「そりゃそうだろう」と。 何事にも科学的な裏付けが、本当に必要なのかどうか。実際に実験を始める前に、ほんの少し共感する心があればそれで事足りるようなことが、世の中には意外と多いような気がする。試してみる前に「そりゃそうだろう」で済んでしまうような、そんな事が。 でも、やはり人は試さずにはいられないのだろうか。確かな裏付けが得られないと、満足できないのだろうか。 本の返却ついでに、今年はもう用済みのスーツ類4着を纏めてクリーニングへと出してくる。喪服と結婚式用(でもないのだが)と仕事用の2着。これらも一足早く休暇入り。良くも悪くもそれぞれに役割があった今年1年。お疲れさまでした。 ■2002.12.23 月 「夏に撮ったビデオ貸してくれー」と昼過ぎに友人が訪ねてきた以外は、休日らしい休日だった。夏に撮ったビデオとは、今年一度だけ泳ぎに行った海で撮ったものだ。日本海の岩場で釣りをしたり、シュノーケリングをしながら焼肉したもの。潜ってみると小さなウニやアワビがけっこう岩にくっついていて、それは魅力的だったのだけど、海岸沿いを走る国道の上からは双眼鏡を手にしたおじさんが、海の上からは磯舟に乗ったおじさんが、モリを手にして潜っているこちらの動向をぴったりとマークしている。密漁監視の地元漁師さん達だ。もちろんそうした漁師さん達とトラブルを起こすつもりは無いのだけど、自分はといえば確かこんな事を言っていた。「タワシとか栗とかさぁ、網にいっぱい入れて肩に担いで、『いやぁ大漁大漁』って海から上がってきたらどうなるだろうね」と。やってみたいような気もするが。 ビデオ、中途半端な所で終ってるよ。と言い添えて貸し出す。その海での途中、1人がモリで自分の指を貫く怪我をした。これは縫った方がいいな、という事で病院に連れて行ったりなんだりで、結局その日は終ってしまったのだった。そしてそれで今年の夏の海行きもお終い。今年の北海道の夏は、本当に短かった。 そんな夏と帳尻を合わせているのかどうかは判らないが、今冬の札幌は小雪だ。今日も箒で掃ける程度の雪が、さらっと降っただけ。今週の残りは全て休暇を出しているので、本当はもう年末年始の長期休暇に入っている。だが、休暇を出しているのは余っていた有給休暇を消化するためで、実際には週末の2日、出勤する事になる。そのためまだしばらくは現在地。何だか中途半端なので、帰省は来週になってからにしようと思う。 そういえば、クリスマスが休みになるなんて、土日を除けばここ10年来初めてのような気がする。でもクリスマスらしい休日の過ごし方なんて、ちょっと思いつかない。クリスマスムード一色のそんな日を、皆どうやって過ごすのだろう。 こちらは特に用事も無い。せめてクリスマスらしいものでも書いてみようかな、と、そんな事をふと思う。 ■2002.12.24 火 クリスマス名物クリスマス寒波による大雪もなく、穏やかだった1日。街中を走ると、平日だというのに車が随分混雑していた。主要な交差点には長い長い車の列。年の瀬を感じる。買い物ついでに、銀行に振り込まれているはずの今月の給料と賞与を下ろして郵便局の口座に預け代えようと思ったが、出かけたのがいいかげん夕方になってからだったので、5分差で窓口には間に合わず。 給料の振込み口座は銀行だが、いつも振り込まれるとすぐに郵便貯金に預け代えている。引き落とし口座も全て郵便貯金だ。今日のような休暇の日などでないと、窓口営業時間内に銀行を訪れることはまずできない。でも、土日や営業時間外にATMで下ろすと銀行では105円の利用手数料がかかってしまう。通帳を見ると今年は6回も手数料を取られている。630円だ。利息なんて17円しかついていないのに。しかも105円の5円って何だ。こういう場合でも消費税って、取られるものだろうか。 とにかく、それを考えるとやはり手数料のかからない郵便貯金を選んでしまう。また、こちらの方が馴染みもある。少し田舎に行けば、金融機関が郵便局しかないという町は結構多い。自身も去年札幌に越してくるまでは、そういう田舎に住んでいた。郵便事業とあわせて郵貯事業の民営化の話があるけれど、その理由はともかく、それには諸手をあげて賛成はできない。銀行と違って採算度外視で地方で営業してくれる郵便局は、田舎では物凄く有難い存在なのだ。 5時半頃に帰りしばらくしてから、玄関のチャイム。出てみると宅配の灯油屋さんだった。すでに空になっていたポリタンク5缶を満タンにしてもらう。ローリーは下に停まっているので、3階のこの部屋までの昇り降りは大変だろう、と思っていたら、ホースを伸ばしてノズルの方を玄関先まで持ってきた。さすが都会の灯油屋さん。その格好はまるでゴーストバスターズだ。 普段は車でガソリンスタンドまで買出しに行っているので、これは便利だと、電話したら来てくれるのかどうか訊いてみる。電話での個別の宅配には応じていないという。「その代わり、週に1回こちらの各戸お伺いしておりますので…」と。でも、会ったのは今回が初めてだ。昨冬も見ていない。それはそうだ。平日のこの時間、まだこちらは職場にいる。今日はたまたま部屋にいたけれど、普段はちょっとサイクルが合わないようだ。せっかく便利な灯油屋さんなのに、残念。 ちなみに、購入したのは灯油90リットル4050円。リッターあたり45円はちょっと高めである。…と、今日は何だか金額にこだわっている。 ■2002.12.25 水 職場で工場の方に顔を出すと、何やら人が集まって天井を見上げていた。訊くと、建物の鉄骨柱の高いところに掛けてある時計の電池が切れたけれど、その時計が掛けられている高さが5メートル程あるので、どうやって電池を換えようか、と考えていた最中なのだという。梯子出してくるのも面倒だしなぁ、と。 じゃ俺行ってきますわ、と引き受けて、代えの電池をポケットに鉄骨をよじ昇る。3メートル程の高さの所に鉄骨の梁があるのでそれに手を掛け、そこを足場にして時計を外す。埃が積もった梁の上には、この時計を掛けた人のものらしい足跡が残されていた。こちらも何年ぶりにかは判らないが、その梁の上に新しい足跡を刻む。そうしてその場で電池交換と時刻あわせをして降りる。 いや、よくああやって上がれるわ、と、降りてから1人に言われる。「俺、ああいう高いところ、絶対駄目なんだよね」と。そこから何故か「高所恐怖症」の話になり、皆で盛り上がった。この仕事もたまに高所作業があるが、必ず何人か「高いところ駄目」と辞退する者がいる。前の職場で鉄塔の頂上にある航空障害灯…夜景のビルの頂上に燈っている、あのゆっくりと点滅する赤いランプ…の交換作業をした時も、一緒に昇るはずだったパートナーが途中ですくんでしまったっけ。 「高いところ駄目」は見かけによらないので、それはそれで面白かったりもする。こちらは子供の頃から木登り大好き人間だったから、と言うと、また1人が「やっぱりそういう影響だろうね」と納得しながら、「高層住宅で育った子供は高所恐怖症にならない」という話をする。それを聞いていた別の人がまた「高層住宅で飼っていた猫が高いベランダから飛び降り自殺した」という話をする。猫も高いところで飼っていると高さに対する恐怖を無くすのだ、と。 そうして話の筋道が全くの横道にそれてしまった頃、そこに集っていた中で一番ベテランの人物が「いや、それは違うんだぞ」と、重々しく口を開いた。「高いところ駄目か平気か、ってのはな、腕力と体重の関係にあるんだ」と。足場の不安定な高所作業では万が一の場合、腕だけで自分の全体重を支えなければならない、そういう事態も考えられる。高所への恐怖というのは、自分の手で自分の体重を支える自信の無い人が無意識のうちに、そういう事態を予想してしまい感じる恐怖なのだと言う。 何だかやっぱりベテランの言う事は違うわぁ、と皆感心したのだけど、まぁ、正しいような気もするし、違っているような気もする。「高いところが駄目」と言っても、鉄塔の上や梯子の上…自分の手足だけが頼りの高いところで感じる恐怖と、飛行機やビルの屋上、展望台といった、ちゃんとした足場のある所から下を覗き込んだ時に感じる恐怖とは、全く別物だろうと思う。前者は自分の体重は自分自身で支えなければならない状況だが、後者はそれとは全く関係がない。同じく高所で感じる恐怖にも、経験的なものと潜在的なものがあるのだと思う。 そういえば。梯子1本で25メートルの高さの鉄塔の頂上に立ったあの時よりも、今年の夏に初めて乗った飛行機の座席に座っている時の方が、かなりスリリングだった。猿の子孫としては、やっぱり自分の手足で支えている時の方が安心なのだと思う。落ちそうになったら、何かに捕まることもできる訳だし。 ■2002.12.26 木 (仕事納め) 有給休暇消化のために今週はずっと休暇を出しているが、昨日と今日は電話番のローテーションで出勤することになっていた。だが今日は午後からの出勤で、半日勤務の予定だったので、昨日は夜更かしして昼近くまで寝坊するつもりだった。 だがしかし。(…と打ったら「駄菓子菓子」と変換された)朝の6時前、まだ日が昇る前の時刻に、電話の呼び出し音で叩き起こされる。寝ぼけていたので受話器を取ったところまでの記憶はなかったのだが、電話は職場からの緊急の呼び出しだった。この職場では、突発に備えてこうした連絡網が完備されている。で、「全員直ちに出勤。次の人によろしく」と。あぁ、ついに来るべき時が来たか。日の出前だというのに窓の外が騒がしい。ゴンゴンと鳴り響く重機の音。…雪かき、ですか、と訊ねてみる。「ビンゴ」と相手が答える。またまた人々が寝ている夜中の間に、結構な量の雪が積もってしまったのだ。 そうして休暇中であるか否かにかかわらず、職場の近隣に住む者でまだこちらに残っていた全員が召集される。それほど積雪が多かった訳でもないのだが、皆が皆休暇を出しているので、各セクション1〜2名の普通どおりに出勤してくる人員だけではこの雪に対応できないと、そう判断されたためだ。そして、「もう今年顔見ないと思っていたのに」等と言い合いながら、皆で雪かき。基本は人海戦術だ。そうして日の出を迎え、7時半頃に終了。そして普段は皆が出勤してくる時間に解散となる。何だか部活の朝練みたいだった。それでは皆さん、良いお年を。改めてそう言い直して別れる。この挨拶も今年2回目だ。3回目はありませんように。 出勤してきた1人が、今日やる事があるからこのまま残る、という事なので、午後からの仕事を代わってもらう。なので結局朝の雪かきだけで、今年最後の仕事日はこんな感じで終ってしまった。…何だかなぁ。 ■2002.12.27 金 大音響…がしたかどうかは判らないのだが、とにかくもの凄い衝撃に飛び起きた時、体は何故か「く」の字形になっていた。この書き出しで一体この身に何が起こったのか判る人は、まずいないだろう。それほど、その瞬間何が起こったのかは、自分にも理解できなかったのだ。 しばらくきょとんとしてから、ああ、と気づく。寝ている最中に突然、パイプベッドが真中から折れたのだ。下の階の住人もびっくりしたかも知れない。まぁ、そうしてベッドがM字形に陥没したので、起きた時。その上に寝ていたこちらの体も「く」の字になってしまっていた。今になって何故か「パラマウントベッド」のCMを思い出す。あんな格好だ。ただし、上体だけではなく足も同じ角度で持ち上がっていたのだが。でも、どうして目醒めたその瞬間、両手だけはまっすぐに前へと伸びていたのだろう。 まだ明け方にもなっていない時刻だったので、電気を点け折れたベッドを点検する。正確には折れたのはベッドではなく、ベッドの真中の継ぎ目の部分を支えている「脚」の方だった。このベッドは持ち運びの時に、真中のその部分から半分づつのサイズに分解する事ができる。ボルト等の締め付けはなく、ただ嵌め込んでいるだけだ。そして、床板も上下半分の2枚に分かれている。それが幸いして、折れたその脚部分以外のベッド本体にダメージは無かった。 ただ、細めの鉄パイプでできた脚そのものは、ベッドのフレームに接続される金具の根元の溶接部分から2箇所、完全に断裂していた。でもこれは溶接すれば治るだろう。溶接機はどうしようか。職場にもあるが、休暇入りで工場はもう閉まっているし…。 あぁ、そうだ。実家にあるではないか。と、その事を思い出した。定年後密かに「町の小さな修理工」を目指している親父は、そのワークスペース(車庫ともいう)に、車一台パラせるくらいの一通りの工具をため込んでいる。母親に処分のチャンスを常々窺われているがらくたも多いが。…とにかくそういう事で、今年末は折れたパイプベッドの脚と共に帰省する事にした。できれば治す方もやってもらおう。 取りあえず折れた脚を外した部分には、高さが丁度よかったスピーカーボックスに電話帳を重ねたものを当てがって応急処置とした。それにしても昨日今日と、何だか目醒めの悪い日が続くものだ。 ■2002.12.29 日 (今年最後に) 朝に内地の友人から電話。明日千歳空港に着くという。こちらは今日帰省する予定だったが、せっかくの久しぶりに会う機会。千歳は通り道だし彼の帰省先とも方向は同じなので、こちらの予定を一日順延し、明日の帰りがけに千歳で合流することにした。なので今日はおまけのような空白の一日となる。今年のここの〆に、今日は何を書こう。 こういう所で人の書いたものを長く読んでいると、何というのだろう。そう。「線」のようなものが見える、そういう事がある。長く読み続けているものはそれほど多くは無い。けれど、今自分が長く読み続けているそうしたものの中には、確かにそういう線があると思う。最初の日付から最新の日付までの間に引かれた、一本の線。何に例えればいいのだろう。似たようなテーマの話題の繰り返し、だとか、頻繁に登場する同じような表現だとか、そういうものではない。その人の行動や感じ方の傾向。それに似ているような気もするけれど、それとも少し違う。 その人の重心、とでも言うのだろうか。棒に通した輪のように、書かれているものの内容がどんなに変わっても、書き手自身は決してその線を越える事がない。たまにその線を大きく越える事があっても、次の日には。また、しばらく姿を見せずにいて、ある時ふと現れたりした時にも、その日には。ちゃんとその線の近くに戻ってきている。 でも、本人達はその線の事を意識してはいないのだろう。言葉でその線が表現されている事はない。本人には見えない、そして気づれかないそうした線。恐らくは傍観者のみが気づくのだろうけれど、こちらにもその線が「見える」訳ではない。それはただ、感じることだけできる線、なのだ。 読み続けているものは好きなものだ。自分にとってそれが好きかどうか、長く読み続けているかどうかというのは、そうした線が感じられるかどうか。そして、その線の在り処が好きかどうか。そういうことなのだろう。 それぞれの人が持つ線は同じではなくそれぞれで、でもそのそれぞれが、素敵だと思う。そんな線とぴったり重なるものでなくてもいいから、そういう線と一点でも触れ合える線。…自分には「見えない」ものなのだが、自分の中にもそういう線があればいい。 日常、インターネット上の違いにかかわりなく、 今年出会った全ての方々に、感謝致します。 |